交響曲第15番 イ長調 作品141
ロジェストヴェンスキー指揮 ソビエト国立文化省交響楽団
1983 BMG/Melodiya
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ショスタコのラスト・シンフォニーは録音こそ少ないが名盤は多い。初演者にしてショスタコーヴィチ実子マクシム、ザンデルリンク、ムラヴィンスキー、コンドラシン、ロストロポーヴィチ、ケーゲル。つい東側の巨匠の名がずらりと並ぶが、ロジェストヴェンスキーは突出して衝撃的かつ面白い。圧倒的な魅力。1楽章のウィリアム・テルの引用や、「おもちゃの店でおこるようなもの」(ショスタコーヴィチ自伝)という悪戯っぽい様子、それが底抜けに明るいのではなく、どこか郷愁や、自嘲とは言わないまでも皮肉のような諧謔さえ感じさせるのは、ロジェストヴェンスキーの好奇心と演出力、それに応えられるソビエト文化省響ゆえではないか。1楽章の大太鼓(練習番号24)などあり得ない大音量なのだが、現実世界と幻想世界を行き来するスイッチとなり、まるで自分の足元または世界の壁を破壊するかの如く説得力がある。1楽章の金管楽器の強奏の凄まじさと、2楽章のコラールの対比。何と分裂的な音楽。そもそも繰り返しの多さも尋常ではなく、正気と狂気、現実世界と幻想世界といった語り口も十分に15番では通用するだろう。ティンパニはおどけるような役割もあれば、まさに破壊の一手という役割もあり、ソビ文らしくいずれも余韻がない(楽譜で指定されるコペルティとは違い、そもそも響かない)。ヴィブラフォンの不気味な響きも特筆すべきで、当時の録音の環境もあってのことと思うが、これは2000年代の録音ではなかなか聴くことができない(ロジェヴェン全集は、ソ連でデジタル録音を開始した初期の、まだ完成していない実験的な音響作りが良くも悪くも反映されている)。この曲はソロが一定以上の水準にないと演奏が成立しないが、ソビ文のソリストたちは素晴らしい技術で、この独特の音響の中で木管も弦楽器も存在感があふれている。3楽章のチャカポコ隊(スネア、スネアのリム、ウッドブロック、カスタネット)による「時の刻み」の前触れも、変拍子の鬼門だが機械的に均一した音色で通り過ぎる。一方、ひどく浅い録音の中で動き回る弦楽器やティンパニが受け持つ旋律は有機的で、思索的かつ幻想的。4楽章のチェレスタはその幻想のまどろみに心理的に囚われるが、ヒステリックな木琴とティンパニの強打で破壊的な衝動の渦に飲み込まれる。そして迎えるこの曲の頂点である練習番号135のフォルテ四つと、その余韻なのかそれが実体なのか「時の刻み」のかたちを持ったティンパニとスネアの暴力。その後に8番のようにどこか解決へと向かおうとする流れと、「時の刻み」が合流する。4楽章の「時の刻み」はスネア、スネアのリム、ウッドブロック、カスタネットによる第一隊と、グロッケンシュピール、トライアングル、チェレスタによる第二隊による刻みと、ティンパニ、木琴、トムトム(前触れとして大太鼓も)というソロ群とに分かれる。全15曲の交響曲のラストは、打楽器が40小節もの「時の刻み」をもってしめくくる。…感動。ロジェストヴェンスキーの茶目っ気と職人的な仕事ぶり、ショスタコーヴィチの分裂的だが収束していくラスト・シンフォニーの性質が融合して名盤を生み出した。哲学的境地に達した驚くべき美しい、そして洗練された演奏である。当時のソ連のデジタル録音の独特な音色とあわせて、素晴らしいディスクである。
M.ショスタコーヴィチ指揮/モスクワ放送交響楽団
1972 Melodiya
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ショスタコーヴィチの15番というオーケストレーションのとても薄い曲を、極めて濃密で分厚く聴かせるマクシム。40-50分ほどのこの交響曲の大部分は、一部の楽器による弱奏であり、ソロが多く、そして長い。オーケストラ全体での演奏はほとんどない。個人技とアンサンブルの高密な精度が求められる難曲中の難曲である(個人的な演奏体験では、最も苦労した思い出がある一方、とてつもない達成感を得た曲でもある)。ショスタコーヴィチ後期の曲で顕著な室内的な響きとソロ、拡大された打楽器によるコンチェルトとも言えるようなクラシック音楽の進化形であり完成形、最終的な姿がこの15番なのであろう。初演者であり実子のマクシムによる、1972年1月の初演と同年のこの録音は、15番というショスタコーヴィチ最後の交響曲の望まれたかたちでのリリースであり、その精緻な演奏とパッションは他の追随を許さない。全体的に速めのテンポで、メロディヤの無駄のないダイレクトなサウンド、超人的なオーケストラの技巧によって研ぎ澄まされた至高のディスクである。当時のモスクワ放送響のストレートで切り裂くような金管楽器と、分厚い木管楽器、そしてこれこそソ連のサウンドといった印象の一糸乱れぬ弦楽器。響かないウッドブロックの強烈かつ明快な打撃音(マレットを振り降ろしている姿が想像できる)と、芯の硬いスネア、ハイピッチで表面的な炸裂音が際立つトムトムの存在感が凄まじい。速いテンポの中でバランス良く駆け抜けるチャカポコ隊も素晴らしい。ショスタコーヴィチが息子を溺愛していたことはよく知られているが、15番の初演にまつわるエピソードは微笑ましい。リハーサルを聴くショスタコーヴィチの心境をつい想像してしまうというものだ。なお、このマクシムの録音はLPで知られていたもので、CD化されたのはメロディヤによる生誕110周年記念BOXのみ(交響曲を集めたもので、イワノフの11番とマクシムの15番が初出。他は既出)。貴重なCDである。
M.ザンデルリンク指揮/ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団
2019.02.12-15 Sony
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ミヒャエル・ザンデルリンク指揮によるショスタコーヴィチ交響曲全集がついに完結。2015年に6番を収録したところから始まり、2019年にこの15番をもって全ての収録が終わった。最後に15番を持ってきたところ、そこに意味を見出したい。この全集の全てが詰まった一枚であり、全15曲の中で最も充実している。ミヒャエルの良い部分が全て表された素晴らしい演奏。今回、当全集を聴くに当たって久々に一人の指揮者で1番から15番まで通しで聴いたが、「ショスタコーヴィチの世界」を令和のこの時代に再現してくれたことに感謝。やはり音楽は感動と共にある。初めてコンドラシンの全集を聴いたときの感動を思い出した。作曲家の書いたスコアを、現実の世に顕すのは指揮者でありオーケストラである。指揮者とオーケストラへの最大限の敬意と共に、このミヒャエルの15番の素晴らしさを伝えたい。15番に関しては、父クルト・ザンデルリンク、そして作曲家の息子マクシム・ショスタコーヴィチと、素晴らしい名演奏が残っているが、私自身のこだわりというか、打楽器や金管の偏った好みも(おそらく)あってロジェストヴェンスキー盤をベストと推しているものの、ロジェヴェン、マクシム、ザンデルリンク親子それぞれに他に代えられない素晴らしい演奏である。弦楽器の軋むような濃密な響きは、我が家のリビングに設置されたオーディオがとても良い仕事をし、部屋全体がホールのように鳴り響き、みしみしと重い圧力を聴かせてくれた。木管楽器の各ソロも素晴らしいし、ショスタコーヴィチ特有のキンキンと頭に届く響きと、もったりと地獄の底から何かが沸き上がるような不気味さを兼ね備えている。そして金管と打楽器、ブラボーである。1番からようやくここに辿り着き、この響きに到達したという感がある。時折バランスを破って見せたり、引っ込んでみたり、テンポを自在に操る。3楽章のチャカポコ隊の変拍子(練習番号96)は極端にテンポを落とすが、クルト・ザンデルリンクの遅さがつい連想される。ミヒャエルの全集全般にバランスの良さが挙げられるが、最も危なっかしいところでバランスを保っているのが当盤。弦楽器と木管楽器のソロはいずれも厚いサウンドで素晴らしい。打楽器は、スネアとトライアングルが良いことは全集全てに言えることだが、ティンパニと大太鼓の何と素晴らしいことか。そしてトムトム。トムとスネアのバランスも良いしピッチも良い。スネアドラム、テナードラム、トムトム、と多彩な小型の皮膜打楽器の活躍が楽しい。それから15番と言えば、もはや「鍵盤打楽器の為の協奏曲」と言っても過言ではなく、シロフォン(木琴)、グロッケンシュピール(鉄琴)、そしてヴィブラフォン(電気モーターによる共振機能付きの鉄琴)。加えてチェレスタ。面目躍如であり、存在感にあふれる。15番は打楽器奏者にとって非常に難易度の高い曲であり、それは個人の技量に加えて打楽器パート内でのアンサンブルに重視されたスコアによる。交響曲第4番やチェロ協奏曲第2番から引用される、打楽器チャカポコ隊による「時の刻み」はまさに。当盤の「時の刻み」の感動的なことといったら!この15番を聴くために全集が存在していると言ってもいいほど。1番から聴き続け15番に辿り着く、という「ショスタコーヴィチの世界」に入ることのできる全集。短い期間によるセッション録音で、実に濃密。ブレのない「世界」がここにある。15番まで聴き終えてしまった寂しさもある。このあとは、ツヴェターエヴァ、ミケランジェロ、レビャートキン、そしてヴィオラ・ソナタを聴こうかな、という気分になる。
K.ザンデルリンク指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
1999.03.16/Live Berliner Philharmoniker
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1999年のベルリン・フィルのライブより。自主制作盤。クルト・ザンデルリンクの到達点のごときショスタコーヴィチ15番、その理想形と言ってもいい。もちろんライブゆえの瑕はあるが、それを差し引いても素晴らしい演奏。ため息が出る。奥深く優しい響きに包まれており、この曲がショスタコーヴィチのラスト・シンフォニーであることを考えると、涙が出そうになる。ロッシーニの引用は、まさに子供の頃の思い出といった霞みがかった印象だが、おもちゃ的感覚に満ちているのに騒々しくないのは、これがあくまで回想によるものだからだ。忙しなくあちこちでチャカチャカと鳴るのがこの曲(特に1楽章)であるが、ちっとも煩わしくない。静かなのである。しかしそれでいて気の抜けた音など一つもない。ベルリン・フィルの確かなサウンドに支えられ、ザンデルリンクの表現が見事に昇華した素晴らしい名演。全体的に穏やかながら、強奏部での迫力は、いったいどこから出てくるのか。クルト・ザンデルリンクのショスタコーヴィチ演奏全般に言えることだが、例えばロジェストヴェンスキーのような凶暴な響きとは180度違う方向の音色を出しながらも、同じことを表現しているのだ。つまり、この一見優しい響きの中に、あらゆる感情が込められていると感じる。音楽という芸術の可能性を限りなく感じさせる。ヴィブラフォンの響きがこうもオーケストラに溶け込むとは。3楽章の悪戯っぽいショスタコーヴィチ特有の変拍子もどこか引きずるような重たいテンポになっているが、まるで夢の中にいるように幻想的。真骨頂は18分33秒も掛ける第4楽章。素晴らしい。…言葉を失う。音楽の横の流れの中でしっかりと縦のリズムを作るスネア、珍しく低音域のトムトムのコンビも素晴らしい。
K.ザンデルリンク指揮/ベルリン交響楽団
1978.05-06 Berlin
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この曲の深みを見せた名盤。ベルリン交響楽団(現在のベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団)の東ドイツ・オケらしい暗い音色による演奏は、ロジェストヴェンスキー、マクシム、ムラヴィンスキーとはまるで違うアプローチだが、クルト・ザンデルリンクの15番への取り組みは、この曲の一つの姿であろうと思わされる。秀逸なのは終楽章コーダ。これは素晴らしい。死へとつながる人生の「時を刻む音」と考えるが、ザンデルリンクの円やかながらどこか冷たいスネア、スネアのリム、ウッドブロック、カスタネットの音色は、機械的に人生の終了へと時を刻むという残酷ながら受け入れるべき人間の運命であり到達点。超常的な精神を呼び起こす。音楽表現の極致。ザンデルリンクはショスタコーヴィチの独特の解釈が光るが、ベルリン・フィルのライブ盤と比べると当時の演奏技術と録音では劣り、深淵な世界を表現するには録音が硬く、強奏時には(おそらくザンデルリンクの意図しない)強烈さが耳に痛い。
K.ザンデルリンク指揮/クリーヴランド管弦楽団
1991.03.17-18 Erato
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クルト・ザンデルリンクの完成されたショスタコーヴィチ世界を体験できる一枚で、78年のベルリン響との録音の不足を補うように録音の良さと充実したオケのサウンドが際立つ。オケの底力を感じさせるパリッと突き抜けるサウンドと、複雑な構成の中での安定したリズム感、ソロの素晴らしいこと。ほとんど完成された演奏のように感じられるが、78年の東ドイツ・オケ独特の響きに聴き慣れてしまうと、アメリカ・オケの技術的安定感と明るいサウンドに却って物足りなさを感じるという何とも理不尽な現象が起こる。クルト・ザンデルリンクの15番のディスクは、特段に優劣を付けるようなものでもないので、「好み」と「出会い」だ。
ムラヴィンスキー指揮/レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
1976.05.26/Live Victor/Melodiya
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ムラヴィンスキーが最も素晴らしいショスタコーヴィチ指揮者の一人であることに異論の余地はないだろうが、二つしか録音を残さなかったこの15番(もう一つの録音はLPのみでCD化されていない)においても、鋭く研ぎ澄まされた演奏に哲学的なものが見え隠れしている。初めのグロッケンシュピールの目の覚めるような音色から、ヴァイオリンをはじめとするソロ楽器の冴えたサウンドが素晴らしく、当時のライブ録音として歪なバランスもあるが、唯一無二のムラヴィンスキーの世界観が展開する。2楽章の終わり練習番号80でトラックが切られている(3楽章へはアタッカ)。そして3楽章は速く迷いがない。全4楽章を真っ直ぐにあっという間に駆け抜けていく。生涯を懸けて取り組んだ盟友ショスタコーヴィチの死後のライブ録音であり、ムラヴィンスキーの心中はいかなるものだったのか。ムラヴィンスキーは次のような言葉を残している。「一生で最も重要な出会い…ショスタコーヴィチとの出会い。最も感銘を受けた音楽…ショスタコーヴィチ作品。演奏活動において最も大事なこと…ショスタコーヴィチ作品の研究。指揮者として最も困難なこと…ショスタコーヴィチの交響曲初演を準備したときの生みの苦しみ、障害、そして抵抗」
ハイティンク指揮/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
2010.03.17-21/Live RCO
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ハイティンクとコンセルトヘボウ管のまさに「名演」。全集盤の不足を補った上でさらに高みに達した名演と言って過言ではなく、ハイティンクによって引き出された研ぎ澄まされた至高のサウンドは、この一見小さく薄いオーケストレーションとソロが続く15番において、何と巨大な音楽世界を描き出すのだろう。ゾッとするような美しいサウンド、確かな構成、名人芸のソロ、有機的な音楽の流れ、いずれを取っても超一流で徹底されている。全集盤の3楽章の不安定さは挽回しており、リズム感も自然と音楽の流れの中で生きている。迷いなきムチとウッドブロック、深淵なるチャカポコ隊の響きは神聖だ。全曲を通してピアニシモからフォルテシモまで、全ての音作りが15番の構成要素として必要な存在感を示し、意味を成している。「感動的」という言葉はこのような演奏のためにあるのだろう。
N.ヤルヴィ指揮/エーテボリ交響楽団
1988.09 Deutsche Grammophon
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ヤルヴィがグラモフォンに移ってからのごく初期の録音。これといった特徴はないかに聴こえるが、よくまとまった演奏で、ショスタコーヴィチは古典の流れを汲む正統派シンフォニストの末裔であると改めて実感させられる。サウンドに派手さはないが、バランスが実に良い。いつもどおり速めのテンポだが、速さによって損なわれることのない絶妙なバランスでこの深淵な15番の魅力を表している。突出することはないが、スネアとやや暗めの響きのトムトムのバランスが良い。3楽章の迷いのないウッドブロックとティンパニのリズムが素晴らしい。やはりヤルヴィの魅力はリズム感にある。3楽章のチャカポコは鬼門だが、あっさりと軽快に当たり前のように通り過ぎる。もこもことした木管楽器の音色の魅力は、このヤルヴィ盤で気付いた。そしてこの歯切れの良いテンポ感で迎える4楽章は、明瞭ながらまるで軽くならずに深みに達する驚異的なサウンドの濃さを生み出す。4楽章のチャカポコ隊が素晴らしい。動機となる大太鼓と弦楽器も良い。チャカポコの構成要素は複雑で、スネア、スネアのリム、ウッドブロック、カスタネットという木質系チームと、グロッケンシュピールとトライアングル、チェレスタによる金属系チームとに分かれる。そこにティンパニ、木琴、トムトムのソロが被る。これを最良のバランスでやってのけるのがヤルヴィだ。
M.ショスタコーヴィチ指揮/ロンドン交響楽団
1990.08 Collins
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初演者にして作曲家の実子マクシム・ショスタコーヴィチの再録音盤。強烈な印象の残るモスクワ放送響盤に比べると落ち着いて構築された整った演奏。全体的にやはり金管が強めで、コリンズの録音とロンドン響の力強く鋭いサウンドによってスピード感のある装い。ソ連のサウンドとは異なるが、音楽の流れは非常に説得力のあるものに仕上がっている。オケが技術的に安定しているので、各ソロや3楽章の変拍子なども流れを損なわず、マクシムの作り出す音楽世界の中で存在感を示している。4楽章の堂々たる終結も素晴らしいものがある。3種聴くことのできるマクシムの15番の中では録音、演奏ともに手堅い一枚。
井上道義指揮/新日本フィルハーモニー交響楽団
2016.02.13/Live Octavia
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日比谷公会堂プロジェクトにて、井上道義が「どうしても合点がいかなかった」ということで2016年に再録された15番。同じ新日フィルで約10年後に日比谷公会堂で録るという、これまた執念の演奏。2007年の全曲録音をオクタヴィアが録音しているのは知られていたが一向にCDが出ない。井上は15番を撮り直したかったのだ。10年越しに完成させた全曲プロジェクトということで、こうなるとこのプロジェクトに個人的な思い入れもあって、私にとって特別な演奏に思える。録音は2007年よりも向上しており各楽器が明瞭に聴こえる。日比谷公会堂のデッドな響きで音が混ざらないものだから、その分、合わないところはしっかり合わないまま聴こえてくるわけだが、だがそれがいい。多少凸凹していても乾いた響きでストレートに届く音色はショスタコーヴィチの魅力を十分に聴かせてくれる。まったくもって思い入れの感想だが、各楽器のソロもどこか切ない響きに聴こえてくる。いよいよ終わりだな、と思うわけである。そして打楽器の「時の刻み」であるよ。録音がスッキリしているので、明瞭に響く。ウッドブロックとカスタネットが表に出ていて、スネアのリムは沈んでいる。トライアングルとグロッケンのハーモニーは良い。静寂の中で15曲を完走。拍手をしたい。
ストゥールゴールズ指揮/BBCフィルハーモニック
2022.08.05-06 Chandos
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11番に始まり、12番、15番、そして14番と後期交響曲を世に出すストゥールゴールズ。次は13番来るか?という期待があるが、BBCフィルの確かなサウンド、重いが粘着質ではない、砂漠のような枯れた表層だが決して薄くはない、ストゥールゴールズのこの度のシリーズ全般に言える良さがある。15番はリズムとソロの曲なので、リズムがしっかり嵌まってソロが抜群に合っていればよいのだが、細かいところまで実にスネアが良い仕事をしているし、当然、BBCフィルの管楽器トップは素晴らしいのである。
ケーゲル指揮/ライプツィヒ放送交響楽団
1972.11.07/Live Weitblick
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ケーゲル選集より。ケーゲルのショスタコーヴィチのサウンドは唯一無二の暗く冷たいもので、恐怖感漂う深い音色が何より魅力。ウィリアム・テルはどこか不気味に響き、子供の夢というよりは悪夢。客席ノイズや瑕疵もあり、「時の刻み」は楽器の特性上の音色を拾えておらずバランスが悪い。全楽章を通して狂気を孕んだ不穏な空気は他に代えられない。録音は時代相応で悪くはない。深く淀んだような大太鼓の鈍い音色が良い(それは交響曲第5番でも同じことが言える)。トムトムは円やかな音色、スネアのリムはカラカラと表面的な音しか拾えていない。木琴、ムチ、ウッドブロック、カスタネットの木質系打楽器は乾ききった倍音の少ない音色(録音)で印象的。強奏部でのオケ全体の咆哮は凄まじい。広がりのある音で大音響を作り出している。初演と同年の録音であることも貴重。
コンドラシン指揮/モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団
1974 BMG/Melodiya
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速く、そして鋭い。ドレスデン・シュターツカペレ盤も同様。コンドラシンはなぜこんなにも速くて鋭いのだろう。他の録音でも同じ傾向だが(ショスタコーヴィチに限らず)、このテンポと鋭いサウンドで生み出される推進力、揚力のようなものが演奏全体をゴールへと導いていくのだろう。1楽章は極めて忙しないが、まるで取っ散らかった印象はなく、一つの方向に向かっていくストイックなサウンドは実にコンドラシンらしい。この風が吹き抜けるよなテンポ感の中でいずれの楽章もサウンド自体は確かな重量感があり、リズム感も良い。
ロストロポーヴィチ指揮/ロンドン交響楽団
1998.10.28/Live Andante
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1998年のショスタコーヴィチ・フェスティバルからの録音。同じ顔ぶれでの全集盤との比較をするまでもなく、研ぎ澄まされた緊張感に満ちた演奏で、実に濃密なサウンド。録音状態も非常に良く、その生々しい大音響には耳を奪われる。偏執狂的なまでの細部へのこだわりと、いかにもロストロポーヴィチらしい癖のある深刻なスタイルが良いかたちで表れた演奏。
ロストロポーヴィチ指揮/ロンドン交響楽団
1989.11 Warner/Teldec
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要所のこだわりと癖は相変わらずだが、ロストロポーヴィチの演奏表現としての劇的で湿った感じがとても良い。特に終楽章の叫びは凄まじい。極めて遅いテンポで密度の高い大音響を轟かせる。内的志向で病的なまでの緊張感に満ちた雰囲気は、ロストロポーヴィチならでは。打楽器パートも、とことことよく響くマルカートな音色。
M.ショスタコーヴィチ指揮/プラハ交響楽団
2006.03.08-09/Live Supraphon
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マクシムの15番はさすがに際立った説得力と魅力がある。聴かせどころというか、力の入れ具合も心得ていて、ドーンとオケが鳴ると感動してしまう。惜しむらくはオケの技量。ところどころで素晴らしい雰囲気を作るのだが、全体的にアンサンブルの精度が低く、とっ散らかった印象は拭えない。マクシムの表現しようという世界観は他の2種の録音からも理解できるし、その方向に持っていこうという姿勢もわかる。しかし、ライブのミスというレベルではなく、丸裸にされるような薄いオーケストレーションの中で、技術的にかなり苦しい。トムトムの表面的で平面的なサウンドは好みだが、1楽章でことごとく16分音符が決まらない。マクシムの15番ならこの全集盤を一番に取る必要はないが、あふれるマクシムへの愛情を持つ同志諸君ならば買いだ!
ウィグレスワース指揮/オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団
2006.10 BIS
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聴き始めるとまず1楽章が遅い。しかし、この遅さで弛緩することなく緊張感と推進力を持ったまま冴えたサウンドで演奏は続く。そしてウィグレスワース全集の最大の特徴であるダイナミクスレンジの広さが生きて素晴らしい体験となるディスク。15番のようにころころと強弱が入れ替わり曲想まで変えていく交響曲において、これほど聴きにくいディスクも珍しいだろう。冒頭でちょっとボリュームを上げてみれば、すぐに大音量だ。もちろん録音は素晴らしく、ウッドブロックの深い音色が凄い。変拍子で楔を打つ耳に痛いいつもの衝撃音ではなく、円やかに深い倍音を聴かせる響き。4楽章ラストの「時の刻み」は、これがまた全ての楽器がよく響いている。
デュトワ指揮/モントリオール交響楽団
1992.05.15,22 Decca
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お手本のような実に綺麗な演奏。まったくもって不足はないが、ソ連勢のような強烈な個性はない。言ってみれば綺麗すぎる演奏で、とても整っている。それがデュトモンの個性であり魅力なのか。4楽章の木琴も美しい。ライナーによれば、デュトワはこの1番と15番の録音のあとに13番に挑戦するようだったが、実現しなかったのはなぜだろう。デュトワは当盤の他に5番と9番でも名録音を残しているが、いずれも明るく歯切れの良い演奏であり、もし13番の録音が実現したらどのようになるのだろうという興味が尽きない。今からでもお願いします。もちろん、モントリオール響で。
ネルソンス指揮/ボストン交響楽団
2019.04/Live Deutsche Grammophon
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ネルソンス交響曲全曲録音プロジェクトから。1番、14番、バルシャイ室内交響曲と併録。極上の録音とボストン響のサウンド、素晴らしい条件のディスクなのだが、室内的な響きを重視した明瞭かつ繊細な演奏として優れている一方、ショスタコーヴィチ特有のお茶目さやダイナミックなハッタリは遠慮しているようだ。いや、十分に素晴らしいと思うのだが、15番をどのように解釈するかというときに、初演者マクシムの解釈をいつまでも引きずっていると、あまりに音の分離が良くて各楽器が際立って上手いので、戸惑う。
ハイティンク指揮/ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
1978.03.20-21 Tower Records/Decca
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全体的にはハイティンク全集の一貫するストイックさと確かな構築で集中力を持って聴かせる魅力がある。しかし、3楽章のチャカポコ隊が噛み合わない。木琴も乗れない。変拍子の中で華麗に踊るウッドブロックも足元が覚束ない。こうなってしまうと、いかに他が良くても15番では足を引っ張る。4楽章のラストはかなりテンポが遅いので破綻はないが、チャカポコ隊(正確には、木質系チームと金属系チームに分かれる)の不安感は残る。ハイティンクのアプローチやオーケストラの響きなど、素晴らしい面が多数ありながら、ピアニシモでの打楽器の動きがそろわない。
ダーリントン指揮/デュースブルク・フィルハーモニー管弦楽団
2006.08.30-31/Live Acousemce
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あまり聞かない指揮者とオケだが、ダーリントンは1956年生まれのイギリスの指揮者、デュースブルク・フィルは古い伝統のあるドイツのオーケストラ。モーツァルトのハフナーと併録されており、それぞれ100年と250年の生誕記念イヤーのライブだったようだ。やや無骨ながら重いサウンドの演奏で、随所でハッとするような迫力を感じさせる一方、細部の造形は甘く、3楽章のチャカポコ隊は巧緻性に欠ける。4楽章ラストのスネアはリムのロールだが、ヘッドを叩いている。トムトムは低い音を使用。楽譜にはソプラノとあるので、本来、マクシムのような甲高い音を想定しているのだと思う。