交響曲第11番 ト短調 作品103「1905年」

N.ヤルヴィ指揮/エーテボリ交響楽団

1989.12 Deutsche Grammophon

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ヤルヴィのショスタコーヴィチ11番である。ヤルヴィの振るショスタコーヴィチ、その魅力は思いきって要約すると三つ。一つめ、テンポ感。ヤルヴィは抜群のテンポ感を見せる。演奏の速度設定は極めて速いが、そのテンポでの演奏において、ヤルヴィの世界観を提示している。オケをほとんど完璧にドライブし、そこには強引な手腕は全く感じられない。自然な音楽の流れの中で、最適のテンポを生み出しているとさえ感じる。明らかに速いテンポであるにもかかわらず。それが抜群のアナライズであると心の底から確信できる。二つめはリズム感。ショスタコーヴィチの演奏において、リズムは極めて重要である。ショスタコはクラシック音楽でありながら、現代的で非常にリズミックな性格を持ち合わせているが、そのリズムの面白さをヤルヴィは引き出すことができる。リズムとは、ストーリーを有した音楽の根源的な原動力である。リズムの乱れは、音楽を損なう。スコアに描かれた世界観そのものを覆うリズムは、決して奏者が損なってはならない不可侵なものであると感じているからこそ、ヤルヴィの奇跡的なテンポとリズムに、我々は狂喜する。そして、ある種の寂しさを感じる。この寂しさの根源はわからない。そして三つめは打楽器。ヤルヴィの抱える打楽器パートは、まさにエリート部隊。超魅力的だ!スコティッシュ管でもエーテボリ響でも、異常なまでに打楽器が強調され、素材そのものが鳴りきり、そして、ものすごくテクニカル。楽譜に要求されている以外のことはほとんど何もしないし、叩き方も音色も特徴的なものではない。しかし、オーソドックスを極め、想像できる限り理想の音響的な鳴りを運んできてくれるから、「CDってやっぱりすごいよな」と思うのだし、ならばSACDで聴いたらどうなるのだろうというわくわくした気持ちも抱かせる。この11番の録音は、そうしたヤルヴィの魅力が十二分に発揮された演奏と私は思う。ソビエト生まれの血も滾り、特に2楽章において最高の演奏を聴かせる。アメリカやヨーロッパのオケに力負けする部分もあるだろうし、心奪われるレニングラード・フィルやモスクワ・フィル、そして我がソビエト文化省響の強烈な音色に比べればとても線が細いのだが、それを弱点とはしない凄みがある。凄み、なのだ。テンポ感とスピード感がそれをカバーする。そして、オケ全体が分裂することなく、一つの音楽を紡ぎ出す。例えば、雪崩れゆく2楽章の虐殺は、極端な速さで突き進んでいく。ここでも大事なのはスネアをはじめとする打楽器群だが、心底素晴らしい。音色、音量、バランス、アンサンブル、どれを取っても素晴らしい。ティンパニは決して音を割ったりせず、豊かな深い音で大音量を聴かせるし、大太鼓も広がりのある深く重い音を響かせる。それでいて、粒立ちもしっかりしている。サスペンデッド・シンバルはシャープな音色で切り込み、圧倒的な存在感を示す。驚くほどに。打楽器の随所の存在感には、単に楽譜に記された演奏以上のものが求められているとわかる。スネアは、このテンポにもかかわらず装飾音符までしっかりと聴かせ、明確なテンポ感でオケの中心的な存在となって存在している。「ショスタコーヴィチのスネア」という、最も理想的で素晴らしく到達感のあるアクションは、僕はこれ以外には知らない。…さて、鬼気迫る大迫力でもって虐殺場面を駆け抜け、その後の静寂の怖ろしいことと言ったらこの上ない。混沌する大音響と静寂との対比は、11番の魅力の一つであろう。1楽章や3楽章などの緩徐楽章でも、深みある演奏を表している。各楽章の解説をする必要があるのか?あるまい。それでも1楽章は透明感があり、標題音楽的魅力に満ちている。深く、暗く重苦しい雰囲気を作り出している。3楽章の葬送行進曲も実に重苦しい足取りで、怒りが爆発するような強奏部には息を飲む。そして終楽章は、極めてドラマチック。グラモフォンの優秀録音もあり、警鐘は暗く、ぐわんぐわんと響きわたり、銅鑼、大太鼓ともに見事な音色を聴かせる。まるで一つの巨大な物語を体験したかのようなカタルシスと共に曲は閉じる。最後に個人的なことを言えば、この録音こそ、私がショスタコーヴィチに傾倒する契機となったものである。高校2年生の頃、当時、私が所属していた吹奏楽部の指揮者が、この曲の編曲楽譜を探していた。ポケベル全盛期ではあったが、インターネットはまだ一般家庭に普及していない時代である。私も探し回ったわけだが、その間、どういう曲なのだろうと思い、たまたまヤルヴィ盤を手にしたのだった。町田のジョルナの地下1階、Taharaというレコード屋である。他のレビューでも書かせてもらったとおり、Taharaは我が青春のレコード屋であり、町田・相模大野・本厚木と、中学・高校の思い出と共に胸に深く沈めるものである。そして、町田のTaharaにて当盤を手にし、今でもよく覚えているが、当時のAiwaのCDダブルカセットのコンポに掛けて、驚愕した。圧倒された。「これこそ求めていた音楽なのだ」と確信した。ジャケット画像は、DG盤から。タワーレコードによる復刻版は「ルビジウム・クロック・カッティングによるハイ・クオリティ・サウンド」とのことで、少しでも良い音で当盤を聴きたい我々にはとてもありがたい国内盤の6枚組BOXだが、ジャケット画像は私の好みと当時の思い出からあえてDG盤としておいた。交響曲と2枚の歌曲集におけるクーレンベックのジャケット画が印象的で、メモ(ヤルヴィのディスコグラフィ)で紹介する。

ロジェストヴェンスキー指揮/ソビエト国立文化省交響楽団

1983 BMG/Melodiya

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これでもか、何もそこまで、というほどの強烈な演奏で、ロジェストヴェンスキーとソビエト文化省響の魅力にあふれる一枚にしてオーケストラ演奏の一つの到達点のよう。レベルの振り切り方が尋常ではない。かつてソ連にこのようなオーケストラが存在していた、という驚愕の事実。金管楽器は、どうしてここまでの濃度と密度で、しかも信じられないほどの大音量で鳴るのだろう…?人間が息を吹き込むことで音が鳴る楽器だということを忘れてしまいそうだ。音程の悪さもマイナスではないと言い切ることができる説得力。2楽章は極端に遅めのテンポを取っているが、この特有なサウンドによって、全曲を通していささかも緩みのない引き締まった内容。残酷で凶悪、地獄絵図という言葉が相応しい。この曲で重要なスネアは、ヤルヴィ盤やムラヴィンスキー盤で聴かれるような「マシンガン・スネア」ではなく、言わば「ショットガン・スネア」。ショットガンを連続で撃ち込まれるような決定的な破壊力。ソビ文らしくやはりスナッピーは緩めなのだが、ここまで叩き込めばヘッドの打撃音が強烈で、雰囲気たっぷりの残響を作り出している。大太鼓と銅鑼は大砲の発射と着弾、シンバルは血と肉片が飛び散る様、木琴は人々の断末魔の絶叫、ティンパニは人々を踏み付けてなお迫り来る巨大な戦車、または無機質な軍靴。音楽における残酷。エイゼンシュタインの映画『戦艦ポチョムキン』のショスタコーヴィチ版で、この曲が虐殺シーンに使われていたが(別音源)、まさにこの演奏は映像の手伝いがなくとも凄惨な場面をイメージさせる。4楽章中間で、しばし希望を感じさせられる曲想が現われるはずだが、ロジェヴェンにはそんなものは通用しない。どこまでもストイックに、音楽の構成を一つずつ積み上げていく。鐘はチューブラー・ベルと思われるが、荒れ狂う強奏の中で聴こえる枯れた響きに、「警鐘」として人々に将来への警告と期待を与えるよりも、絶望感が広がる。12番を続編として聴くことはなく、このまま破壊的な終局を迎える。ところで、2楽章の練習番号57からのシンバルに銅鑼を重ねている。明らかにシンバルだけではない銅鑼の独特の残響が聴こえ、この重苦しいテンポの中では確かにこれだ!という説得力がある。

ムラヴィンスキー指揮/レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団

1959.02.02 Victor/Melodiya

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ショスタコーヴィチは、イギリスの評論家に「間もなくムラヴィンスキーの交響曲第11番のレコードが出されることになっていて、これをあなたに送ります。これが最上の演奏だと思っています」(タシー『ムラヴィンスキー 高貴なる指揮者』アルファベータ)と手紙を書いている。初演から1年と少しの時間を置いて録られたスタジオ録音盤。この演奏については、また別の評論家のコメントだろうか、同書で「異常に激しい演奏となった。人を恐れさせるスケルツォとフィナーレには、本来の色彩で作曲したというよりは、滴り落ちる赤と黒の大きな一撃で壁にはね散らされた頁がある。(略)金管奏者はあらん限りの音量で叫び、打楽器はオーケストラの残りの者すべてを圧倒するかのように脅かし、ヴァイオリンはもう少しのところで弓の跡の焼け焦げで弦が傷つくほどである」と紹介している。実によくわかる評価である。ムラヴィンスキーの他の録音と比べても金管楽器の鳴り方は異常なほどであり、この激しさは11番の真髄に迫る。歴史的音源である初演盤に続くムラヴィンスキーの貴重な録音であるが、やはり録音状態は現在の視点では難がある。初演盤よりもだいぶ良い状態ではあるものの、全ての熱量をCDに収めることは不可能だろう。録音の過程で捉えきれなかった魅力が多くあったことだろうから、ここは想像力で補う。切れのあるテンポ感、駆け抜けるような疾走感、どこまでも真っ直ぐでストイックなベクトル。これは、ムラヴィンスキーだ。

ムラヴィンスキー指揮/レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団

1957.11.03/Live Russian Disc

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時代、歴史を切り取った一場面として、これ以上の演奏は存在しないかもしれない。ムラヴィンスキーの振るショスタコーヴィチはやはり格別だと思い知らされる。何という緊張感。初めてこの録音を聴いたとき、思わず涙が出そうになった。2003年冬に開催された、一柳富美子先生による朝日カルチャーセンターの全5回ショスタコーヴィチ講座でのこと。この日は10番・11番・12番が鑑賞曲だった。レクチャーを受けながら聴いたのだが、2楽章の虐殺場面はまさに身が震えたものです。それにしてもこの録音の悪さ、モノクロのドキュメンタリー映像を見ているような臨場感がある。ここまでの恐怖を感じさせる演奏は他にあるまい。やはりムラヴィンスキーによるショスタコーヴィチ演奏の凄みは格が違う。同曲のレニングラード初演ライブの録音。モスクワ初演は当盤の4日前の10/30、ラフリン指揮のソビエト国立響。当時ソ連では初演は2回あるのが当たり前だったようだが、モスクワが先になったのは十月革命40周年記念として首都が優先されたとの事情があるとのことだ。スタジオ録音盤と比べて、ライブゆえの燃焼度が高く、初演を任されたムラヴィンスキーの真剣度と興奮が伝わってくる。ジャケット写真は、雪の街並を歩くコート姿のショスタコーヴィチとムラヴィンスキーの姿。とてつもなく格好良い。

ロストロポーヴィチ指揮/ワシントン・ナショナル交響楽団

1992.10-11 Warner/Teldec

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ロストロポーヴィチのアプローチは極めて深刻である。どろどろと深く感情を侵食するような不安に満ちている。例えばヤルヴィとは正反対の演奏で、このテンポの遅さがロジェヴェンに近いかと言えばそれもまた違う。ロストロポーヴィチの場合は、より主観的な苦しみや悲しみが表現されているように思う。「何をそんなに大げさな」と思われるかもしれない。いや、だが違うのだ。ぜひ味わってほしい。このロストロの演奏を、濃密な世界観を。1楽章の、この暗さをどう表現しよう。重苦しいティンパニの音色を。どんどんテンポを落としていく2楽章の絡め捕られるような虐殺はどうだ。虐殺場面でさえ、「そう簡単には逃がすまい」とばかりに、「ロストロポーヴィチの手」とでも言うべきものが上空からにゅっと現れて捕まえられる感じ、つまり、我々が想像できる演奏が単なる情景描写に過ぎなかったと思わせるほどの、運命的なサウンドがある。3楽章で見られる、一寸の希望の光の何と美しいこと。そして「悪のテーマ」たる打楽器の不気味なこと。当WEBサイトで挙げた11番のベストCDにはそれぞれの魅力があって、ヤルヴィがその疾走感とひたすら格好良いオーケストレーションを鳴らしきる業にあれば、ムラヴィンスキーはまるで記録映画のような残酷極まりない客観性に、そしてロストロポーヴィチは個人的な情念にその音楽を手繰り寄せた「世界のかたち」とでも言うべき生々しさにある。楽譜の改変とまではいかなくとも、半ば強引にテンポを変えてみたり、最後の鐘を止めずに余韻を残したりと、様々な演出をしてみせるが、それでもこの完成された世界観ゆえに説得力がある。私の個人的な体験で言えば、私自身が初めてこの曲を演奏した機会に、これまでに聴こえなかった様々な音が聴こえてきた。これはロストロポーヴィチの11番に近付く体験であった。

M.ザンデルリンク指揮/ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団

2018.06.29-07.03 Sony

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ミヒャエル・ザンデルリンク全集、ついに11番であるが、これまでのディスクと同様にコントロールの効いたバランスの良い演奏であり、1番からの音色の一貫性は本当に素晴らしい。暗めの響きの中に、メリハリの効いたテンポ感。そして、このある種の落ち着きとでも言うべき佇まいは、冷たさや冷静さとは異なる。そして、ミヒャエルの11番はティンパニが実に良い仕事をしている。特に3楽章。全集全般的に、ティンパニはスネアやトライアングルのような特筆するインパクトはないものの、ややデッドな感じの渋い音色は気に入っていたが、11番ではティンパニが最も効果的に聞かれる。素晴らしい存在感。テンポは相変わらず速めの設定で、2楽章も落ち着きを持ちつつ難易度の高いテンポで虐殺に突入する。食い気味で強打のスネアも良いが、大太鼓のフォルテが凄まじいことに。最近、我が家のオーディオを低音重視のチューニングにしていることと、少し離れた位置でウーファーをしっかり鳴らしていることもあって、大太鼓の一音一音に部屋が揺れるような感覚。1楽章、3楽章の響きはこのミヒャエルとドレスデン・フィルの魅力そのもので、ミシミシと密度の濃いもの。そこにティンパニや大太鼓が重なるとまさにショスタコ・ワールド全開の世界観に包まれる。4楽章はこれまた快速テンポで始まるが(それにしてもミヒャエルの全集におけるテンポ設定は、時折ややオーバーな演出もあるものの、いずれも「まさにこれだ!」という感じ)、無理のない管楽器の鳴りと余裕のある弦楽器の響きの中で進行していく。ティンパニはここでも存在感のある主役のような立ち位置にあり、本当に感動的。この全集の中で最もティンパニ+大太鼓の組み合わせに感動する一枚。やはりショスタコはこうでなくては!練習番号176以降の警鐘は、ミヒャエルにしては遅めの展開。木琴と弦楽器のユニゾンの四分音符が短めに演出され、リタルダンドした上で176に入る。そして鐘はチューブラー・ベルではなく釣鐘。最後は止めずに鳴らす。スタジオ録音盤でこのように素晴らしい11番に出会えたことに感謝である。納得の一枚である。

ハイティンク指揮/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

1983.05.02-04 Tower Records/Decca

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ハイティンクらしい生真面目な構成による説得力にあふれた一枚。いわゆる西側の演奏としていち早く交響曲全集を完成させたハイティンクだが、この時代にコンドラシンやロジェストヴェンスキーの全集と並んで、まるで劣らぬ魅力があるのは、機能的な演奏精度と尖ったサウンドゆえ。メロディヤと比べてデッカの録音は聴きやすいが、83年の録音なので2020年代では古い。しかしこの乾いた響きがハイティンクの振るショスタコーヴィチに実によく馴染む。バリバリと鳴るオーケストラの鋭く強烈な響きが素晴らしく、打楽器もスネアをはじめ直線的で妥協のない引き締まったサウンド。要所で聴かせる大音量のロールは、まさに音響の洪水。とてつもない存在感。11番は革命歌の引用などドラマチックな旋律が聴かれるが、ハイティンクにとっては余計な感情を挟む余地はあるまい。当然ながら革命交響曲であるわけがなく、純器楽的なアプローチを見せ、その真っ直ぐさこそハイティンクのショスタコーヴィチの魅力である。透徹感さえある冷ややかな雰囲気は、スコアから自然に放たれるものなのだろう。いつもながらハイティンクは真面目な演奏で、決して感情的にならず、全ての楽器をバランス良く鳴らし、一つの交響曲の在り様を示してくれる。

ラザレフ指揮/日本フィルハーモニー交響楽団

2015.03.20-21/Live Exton

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ラザレフと日フィルによる11番の再演がエクストンからCD化。2003年に初めてラザレフが日フィルを振った曲が11番であり、私も嬉々として会場に足を運んだものだが、こうした個人的な思い入れもあるのか、スコティッシュとの録音よりも共感があり、かなりお気に入りの一枚。薄めの尖ったサウンドで、テンポ感が良い。無駄に響かず、薄く浅いハッキリとしたサウンドの輪郭が、もはや中毒になりそう。このティンパニや大太鼓の沈み込むような余韻の少ない強打は、個人的には理想的だと思う。輪郭がここまでハッキリしていると、11番のような技術的な難易度の高い曲では粗が露呈しそうなものだが、日フィルの職人的な奏者たちの真摯なアプローチは、見事にこの大曲のストーリーを再現している。スネアのテンポ感やアクセントの置き方も個人的には大好きで、オーケストラも全体的に高音が刺激的。鐘もキャンキャンとやはり軽めだが耳に痛く主張しており、ラザレフの造形に実に合っている。例えば同じエクストンでも井上道義の11番とはだいぶ異なる録音で、好みは分かれるかもしれない。もちろん私はかなり好きだ。やはり自分は深く重く広がって空間を遠くまで濃密に満たしていくようなサウンドよりも、目の前で直接的にハッキリとわかりやすい輪郭のサウンドが好きなのだな、と改めて思わされた。ところで、CDのプラケースを逆さまに使ったデザインで、通常の裏側が表側にくる仕様(昔のRCAであったよな、と)。そのため、2枚組ではないのに横長のジャケットとなっている。

コンドラシン指揮/モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団

1973 BMG/Melodiya

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凄まじい切れ味、鋭いテンポ感、贅肉のない引き締まった各楽器の力強さ、いずれを取ってもコンドラシンらしい素晴らしい演奏。隙間を全て埋めるような演奏、と言ったらいいか。つんざくような鋭い響きと、まさに間髪入れないスコアを埋めるようなショスタコーヴィチの「合いの手」的なオーケストレーションの醍醐味を味わえる。しかしながら、難点は録音状態にある。楽章ごと、そしてあちこちで録音のバランスがかなり異なる。当時の録音だと考えればそうなのだが、この素晴らしい演奏を前にそれで割り切れないものもある。2楽章の虐殺のスネアは、右側から異常なまでの近さで届いてくるが、4楽章ではバランス良く(ん?)届く。コンドラシンの11番に触れる機会は現時点ではこの一枚しかないだけに、実に悔やまれる。

北原幸男指揮/NHK交響楽団

1992.03.25/Live Koch Schwann

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はっきりしたテンポ感、拍感を持った演奏で、細くキンキンと鳴る録音が強烈な一枚。しっかりとした造形で細部まで端正な音作りが行われているのがわかる。N響の技術、サウンドも素晴らしく、2楽章などは速めのテンポで突き進むが、ドキドキするようなドライブ感が魅力的。細部まで粒立ちの良い演奏と、この細い録音によって頭痛がするようなインパクト。高いピッチでカンカンと鳴るスネアは、音色のクリアなティンパニとの相性が良い。警鐘は写真によればチューブラー・ベルを2台立てているのが確認できるが、豊かな響きでよく届く。そして、ここまでやるかという銅鑼である。当演奏のMVPと言っていいのではないか。ロジェストヴェンスキーとはまたまるで違ったタイプの演奏だが、ある種の凄惨さが伴う。1992年に日本の指揮者とオーケストラでこのような演奏があったことは、実に感慨深い。さすが、北原先生のショスタコーヴィチ。まるで芸能人のようなルックス(北原先生は遠目にも高貴なオーラを発しているのが見える)からは想像もできない激しい一枚。北原先生の振るショスタコーヴィチは、アルトゥスからの都響との5番や、N響のTV放送などでいくつか録音を聴くことができる。また、個人的には何度か奏者としてアマチュア・オーケストラでご一緒したことがあり、ショスタコーヴィチも2回ほど演奏の機会があった。リハーサルでご指導いただく数々のコメントから、ショスタコーヴィチへの並々ならぬ思いを感じたものだ。

井上道義指揮/大阪フィルハーモニー交響楽団

2017.02.17,18/Live Exton

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井上道義が大阪フィルの首席指揮者として振った最後の定期演奏会のライブ録音。プログラムは11番と12番。この2曲を連続で聴くことができるのは格別の喜びがあるに違いない。日比谷公会堂全曲演奏でも、名古屋フィルと11番・12番を連続で演奏している。2曲同時演奏へのこだわりは井上道義らしいもので、12番もぜひ2枚組でCD化を望みたいところであった。エクストンの大阪フィルの録音は、ショスタコーヴィチでは4番、7番、11番、そしてロシキル序曲が残されており、いずれも力強く繊細な名演と言える。当盤は全曲演奏以来のCD化だが、全体的に引き締まった筋肉質な演奏で、TV放送された2019年10月5日のNHK交響楽団との演奏に近い。骨太なサウンドと、上から下までしっかりと聴くことのできる優秀録音によって、ショスタコーヴィチの魅力が存分に伝わってくる一枚。ドラマチックでエネルギーにあふれる。録音の良さもあって、重厚感ある響きが素晴らしく、各楽器が伸び伸びとよく鳴っているのがわかる。それにしても強烈な金管楽器や打楽器が特徴的で、ソビエトのオーケストラのようでもあり、つまりショスタコーヴィチ自身がイメージしたオーケストラのサウンドに近付けようという解釈なのか、非常に好感が持てる。2楽章や4楽章などの爆発力はそれはもう凄まじいもので、現代の日本のオーケストラでこのような演奏を聴くことができる喜びは比類ない。2楽章の虐殺は意外にも速めのテンポを取っており、音響の坩堝に飲まれる。まるで祈りを託すかのような崇高な4楽章の響きは、この曲の解釈、魅力を表している。4楽章の鐘はチューブラー・ベルだと思うのだが、オーケストラの圧倒的な音量の中に埋もれていて存在感がない。井上道義は、日比谷全曲での名古屋フィルのときは打楽器を左配置し、チューブラー・ベルは最も客席に寄せていた。N響のときも左配置だ。実のところチューブラー・ベルはイメージほど音量の出る楽器ではないので(やはり板鐘だよな、とつくづく思う)、様々な工夫が求められる。

井上道義指揮/名古屋フィルハーモニー交響楽団

2007.12.05/Live Octavia

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ショスタコーヴィチ演奏史において、もはや伝説と言って過言ではない日比谷公会堂での交響曲全曲演奏プロジェクト。いくらでも思い出話が出てくるが、この11番は私は2階席中央でステージ全体をしっかりと目に焼き付けながら、日比谷公会堂のデッドな音響を味わった。反響版を使わず、コンクリートとシャッターが剥き出しの舞台は圧巻であった。打楽器は下手配置。客席に近い楽器はそのまま近くに聴こえる。スネアと鐘が手前に配置されており、打撃音がダイレクトに届く。井上道義の後年の演奏と比べてテンポは軽やかに速く、時折しっくりと収まらない前のめりなリズム感。ホールが良くも悪くも響かないので、録音もこれに合わせてかストレートなサウンドが実に魅力的。ショスタコーヴィチらしい、となぜか感じる。他にもデッドな響きの録音は数あれど、この素直さは日比谷全集が随一だろう。スネアがとにかく手前にいるので、ザクザクと明瞭な粒立ちで格好良い。銅鑼やサスペンデッド・シンバルの微妙な手癖やコントロールも全て収録されており、余計な響きに誤魔化されない生の演奏の質感に飲み込まれる。妙に重苦しい要素や過剰な演出もなく、素直に聴くことができる一枚。そして、休憩を挟んで演奏されたその後の12番も同様に素晴らしく、ショスタコーヴィチがこの11番と12番に連作のような標題を与えた意味も感じることができる。ライブ一発録りなので細部に乱れがないわけではないが、それでもライブであることの意義、この演奏会を収めた録音としての価値は、至宝であろう。

バルシャイ指揮/ケルンWDR交響楽団

1999.05.03,07 Brilliant

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精緻な演奏で、1楽章や2楽章冒頭の弱奏の弦楽器の響きが美しく整っており、細部までぴたりと合う素晴らしさは、アンプのボリュームを上げてみるとこのアンサンブルの精度がよくわかる。全曲を通してこの丁寧さは貫かれており、やや感情的な表現が目立つ同曲の演奏において、異質とも言えるほどクール。「無駄な響きを削ぎ落とした」と言うべきストイックな録音には非常に好感を抱く。全体的には遅めのテンポを取っているが、木管楽器のソロの味わい深さも格別で、この遅いテンポの中でどっしりと構えた安定感のある演奏。弦楽器や木管楽器を中心に、ギシギシと軋むような高密度の演奏であり、全集中でも評価の高い一枚と言えるだろう。打楽器も大変魅力的で、特にスネアの深く芯の鳴る木胴と、余計なノイズを排除するように締め上げられたキツいスナッピーは中毒になる。スネアのPPでの装飾音符付きの刻みと弦楽器のアンサンブルなどは息を飲むほど美しい。ティンパニや大太鼓、銅鑼といった低音の打楽器も実に奥深く、そして余計な残響のない録音で心地良い。4楽章は釣鐘を用いており、ピッチによって音色のバラつきはあるものの存在感は十分。余韻を少し残す。バルシャイの11番は実に丁寧で雑味のない演奏だが、一方、感情的な強奏を求めると幾分のもの足りなさもある。金管楽器もチューバやトロンボーンをはじめ高密度の良い音色を聴くことができるが、例えば練習番号146の7小節前のトランペットなどは力を抜きすぎて迫力に欠ける(この部分は曲調が明るくなるためか、ムラヴィンスキー盤のように力を抜いてふわっと仕上げる演奏もあるのだろうけれど)。いずれにせよ、聴いたあとにはあれこれと何かを語りたくなるような魅力的な演奏であり、バルシャイ全集の特長が存分に表れている。ブリリアント・クラシックスが国内に入ってきたときに極めて廉価(2,500円程度)で発売されたショスタコーヴィチ全集であり、多くのファン、またはショスタコーヴィチに関心はあるものの交響曲全曲までは聴いたことがないといった層が手に取ったと思われるが、この充実度、完成度には驚かされる。これまでもバルシャイは14番の名演や弦楽四重奏曲第8番の編曲が知られていたが、ヴィオラ奏者として培った視点は、一見、金管楽器や打楽器が派手なショスタコーヴィチの交響曲において独自のスタンス、こだわりが感じられる。なお、バルシャイは同じブリリアントからマーラー10番の編曲を録音しているが、このバルシャイ版の10番はショスタコーヴィチの息吹を感じるもので、私はどの版よりも当然バルシャイ版が好きだ(ショスタコーヴィチは同曲の編曲依頼を断った経緯があり、またバルシャイに編曲を勧めていたりもする)。

スクロヴァチェフスキ指揮/読売日本交響楽団

2009.09.30/Live Denon

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ライブ一発録りで随所で音が薄く、パワー不足や管楽器の音程が気になるが、読響は基本の実力値が高い素晴らしいオケだと思う。まさかの10-11番の2枚組でリリース。未発表ライブとのことで非常に興味を惹かれたディスクだが、その演奏の充実度も期待に違わぬもので、妥協のない鋭く突き刺さるような強烈なサウンドとはっきりしたリズム感、それでいてどこか暗い陰りを持つ演奏になっている。スクロヴァチェフスキのショスタコーヴィチは明快なリズム感とドライブ感が魅力的だ。1楽章の暗く退廃的で不穏な響きと、2楽章の切羽詰まった緊迫感、3楽章のクールさに潜む激情、そして4楽章の爆発と警鐘、全てが一つにつながった壮大な音楽世界を描く。3楽章に見られるような、どこかクールなスクロヴァチェフスキの眼差しが、この曲の内面をしっかりと見据えている。瑕も含めた読響のライブサウンド、薄いが音質の良い録音、そしてこのクールさがこのディスクの魅力になっている。容赦ないスネア(2楽章71の連打や4楽章162の前のロールなど、容赦ない)、輪郭のはっきりしたティンパニ、品の感じられる銅鑼と大太鼓、そして耳に痛い鐘の音色と、打楽器の活躍も素晴らしい。終演後の拍手に共感する。

キタエンコ指揮/ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団

2004.02.12-17/Live Capriccio

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キタエンコの全集中でもかなり充実した演奏に思われる。透き通った弦の響きも美しいし、骨太な金管低音も相変わらず力強い迫力。2楽章の描写も大変ドラマチックで、アッチェルしながら虐殺に突入する様子にはニヤリとさせられたりもする。4楽章は最も素晴らしく、冒頭部から尋常ではない意気込みを感じる。テンポも安定しているし、録音は文句がない。打楽器もいずれもキタエンコらしい職人的な傾向があり、銅鑼の響きなどは録音の良さもあって格別の美しさ。ティンパニも打撃音を強調し余韻を短めに切る部分などあるが、それでも録音の深みがそれを不自然なものにしていない。4楽章の鐘は釣鐘を用いており、大きくて重い音色。オーケストラが消えたあとも鐘の余韻のみ残しているが、こうした演出も当盤では違和感なく聴ける。

ラザレフ指揮/ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団

2004.01.22-23 Linn

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当時ラザレフはあまり音盤では知られていなかったものの、2003年に11番を演奏した日フィルとのライブが素晴らしく、すっかり惚れ込んだ。ボリショイ時代のラザレフの演奏は、ロジェヴェン並みに豪快、コンドラシン並みに切れ味があった。何せ、ムラヴィンスキーがレニングラード・フィルの後任に推薦した実力者である。私は幸運にもかつてTV録画したリムスキー=コルサコフの歌劇「ムラーダ」(ボリショイ劇場)の映像が手元にあるが、素晴らしいコントロールの超名演である。そのラザレフがついにスコティッシュ管と録音したショスタコーヴィチ。決して鈍重にならない深い鳴りと、一方で随所に聴かせる鋭い響きが素晴らしい。2003年日フィルのライブと解釈はそう変わらない。オケの性能が違う分、またスタジオ録音である分、当盤の方が細部まで丁寧に繊細に仕上げられている。2,4楽章での燃焼度も高く、ラザレフがこの曲をショスタコーヴィチの中でも特に重要視している様子が伺える。録音も良い。そして、すごいのは演奏だけではない。見よ、このジャケットのセンス。素晴らしいではないか。白黒写真を後から彩色する、この独特の雰囲気。昔の映画のポスターみたいな味があるし、パルプ的な安っぽさが実に良い。それから、曲名表記の必要があるので、無機質なデザインになりがちな裏面。この大胆な構成(ラザレフのこのポーズは何だろう。マジシャンか教祖か)。指揮者の写真をジャケットに配したものは数あれど、ここまで超越したものもあるまい。

ロジェストヴェンスキー指揮/BBCフィルハーモニック

1997.10.04/Live ica

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2022年初出CD。4番と11番のカップリングなんて!という素晴らしいディスク。ソビエト文化省響との全集盤と比較して、驚くような解釈の変化はない。重厚感あるテンポでしっかりと鳴らしていく構成はロジェストヴェンスキーらしい。1-3楽章まではわずかに全集盤より速いが、4楽章は全集盤14:45に対して本盤15:36とさらに重い。特にコーダの遅さが際立っており、入りでオケがテンポを掴み損ねているが、この重苦しい足取りは、警鐘が鳴る事態に陥った歴史そのものの罪深さを想起させる。サウンド面では、ソビエト文化省響の超強烈な響きと比べると至って真面なもので、一方で金管や打楽器の物足りなさは否めない。ライブ録音につき、テンポの乱れや管楽器の瑕疵は要所で聴かれる。録音は悪いとは言わないが1997年ならばもう少し期待したいところで、あくまで秘蔵音源といったところなのだろう。

ロストロポーヴィチ指揮/ロンドン交響楽団

2002.03.21-22 LSO

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ロストロポーヴィチとロンドン響という間違いない組み合わせ。全集録音後もロンドン響とのショスタコーヴィチを度々リリースしており、もしや初の全集第二弾か!という期待もあったものの、その願いは叶わなかった。当盤の評価としてはどうしても全集のナショナル響との比較になるが、オーケストラの力や録音の良さもあって、当時ナショナル響のあのゴテゴテとした生々しさとは少し違う。ロストロポーヴィチの11番の魅力があの生々しさだとすれば、当盤はもう少しアッサリとしており、もの足りなさがある。とは言え、オーケストラの圧倒的な力量や、渋味のある引き締まったサウンドには圧倒される。

ベルグルンド指揮/ボーンマス交響楽団

1978.12 EMI

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何と言っても粘りのある密度の高いサウンドが魅力的な一枚。オーケストラが豊かに鳴っており、無理な強奏に走りがちな同曲において冷静なアプローチとも言える。弱音部分の音の広がりは息を飲む。濃密な世界。大太鼓や銅鑼のピアノ表現がとても好き。統制されたサウンドの一方、全体的に遅めのテンポを取っている中で、まるで先に行こうとする勢力と後ろに引こうとする勢力があるようなタテ線の不安さがある。硬質なスネアが目立つが、常に食い気味でオーケストラを置いていく。パーヴォ・ベルグルンドは他にもショスタコーヴィチの録音が知られるフィンランドの指揮者で、ネーメ・ヤルヴィは息子のファーストネームを氏から頂戴したのだという。

ポリャンスキー指揮/ロシア・ステート交響楽団

1995.11 Chandos

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ひと言で言えば、粘着質な演奏である。これはポリャンスキーとステート響の特徴でもあり、突出する魅力だ。ステート響は、ロジェヴェンのソビエト文化省響の後継であり、90年代には時代に抗うかのようにこうしたアクの強い強烈な演奏を残している。べったりと密度の高いサウンド、これでもかと言わんばかりの密度の前には平伏してしまう。2楽章は殺人的な遅さと重くて原色な高密度のサウンドに悶絶するが、4楽章冒頭の爽やかに快活な(本当か?)流れ。こうした両極端の非常に疲れる演奏なのである。スネアの硬い音が素晴らしい。

ウィグレスワース指揮/オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団

2006.03 BIS

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冷静でクールにまとめているウィグレスワース全集。オーケストラもスマートで機能的なわかりやすいサウンドだが、優秀録音によって分厚い響きを聴くことができる。細部までくっきりした解像度の高い録音で、この大編成のオーケストラにあって、各セクションがしっかりと分離して明確な輪郭を持っている。解釈としてはオーソドックスな内容で、丹念かつ整然にこの大曲を俯瞰的にまとめている。ウィグレスワース全集に時折見られる、フレーズの終わりを押し出すようにふわっと強める表現はあまり好きではないが、気になるほどでもない。マルカートなティンパニと大太鼓、ザクザクと勢いの良いスネアの音色が良い。

シュウォーツ指揮/シアトル交響楽団

1995.06.05-06 Koch Schwann

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意外なところで名演発見。スネアの音色が特徴的で、スネアというよりはテナー、あるいはフィールド・ドラムといった感じ。2楽章のソロではそれが違和感があってどうにも馴染めないが、4楽章は実に見事にはまっている。全体を通しても4楽章が素晴らしく、特にラストの辺りはゾッとするほど盛り上がる。テンポは終始ほとんど揺れず、機械的な印象も受けるがそれが恐怖度を促進させ、何とも凄惨、残酷な雰囲気を作り出している。シュウォーツは交響詩「十月革命」や叙事詩「ステパン・ラージンの処刑」でも名演を残している。

ビシュコフ指揮/ケルンWDR交響楽団

2001.11.19-23 WDR/Avie

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ビシュコフとWDRの自主制作盤からの一枚。綺麗に整理された演奏で、SACDの優秀録音とWDRの精緻な演奏技術によって安心感のあるディスク(同曲において「安心感がある」というのも妙な表現だが)。引き締まったテンポと音色で、確かな構築力、造形が魅力的。2楽章の「虐殺」はかなり速めのテンポを取っているが、崩れない。スコアを片手に細部までじっくりと聴きたい。そしてやっぱりケルンWDRのサウンドって良いよね…、とウットリとしてしまう。どこか落ち着かなかったベルリン・フィル盤に比べて、大きく飛躍した演奏ではないか。それにしてもこのシリーズ、単調なジャケットデザインにもかかわらず中身はフルカラーと豪華。

プレトニョフ指揮/ロシア・ナショナル管弦楽団

2005.02.14/Live Penta Tone

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プレトニョフが…!素晴らしい演奏だ!ピアニストとしての評価はさておき、指揮者としては、これまでの録音を聴く限りでは私はあまり興味を抱かないタイプの演奏であった。ライブ録音だからなのか、これまでの印象を覆す情熱的な演奏になっている。これはもう、今までの不敬罪をお許しくださいと請うばかりである。私としては、どうしたってこの曲はスネア中心に聴くことになってしまうのだが、ロシア・ナショナル管のスネアの素晴らしいこと(このCDの発売時にいくつか同オケの録音が出ているが、同じ奏者であるならば、その演奏の燃焼度は間違いないだろうから、早速注文してみよう)。音色も素晴らしい。これはエーテボリ響に次ぐスネアだ。演奏そのものは結構散漫な感じで、途中で何となく飽きてしまうようなメリハリのなさ、緊張感のなさがあり、曲の持つ凶悪で残虐な恐怖感はロシア巨匠勢には及ばない。しかし、それでもスネアの健闘と、全体的に遅いテンポを取っているにもかかわらず、要所でのスピード感、リズム感が良くて、力を抜いて聴けるところを推したい。さらにはSACDなので、録音も良い。ボリュームをぐんと上げて聴きたい一枚である。

ストゥールゴールズ指揮/BBCフィルハーモニック

2019.08.08-09 Chandos

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2019年の最新録音である上にセッション録音のSACDとあって、素晴らしい音響でこの交響曲を味わうことができる。フィンランドの指揮者、ヴァイオリン奏者というストゥールゴールズの演奏は当盤にて初めて聴いた。まるでソビエト時代のオーケストラが現代に蘇ったかのような、統率された響きの中に野太く荒々しい演奏が聴かれる。さすがBBCフィルといった安定した演奏と、ずっしりと重く聴かせるテンポ感と豊かな響き。ジャケットのイメージがぴったりで、旧ソ連の雰囲気を引き出している名演ではないかと思う。例えばヤルヴィやムラヴィンスキー、北原幸男のような快速テンポで駆け抜ける11番ではなく、ロジェストヴェンスキーやロストロポーヴィチまでとは言わずとも、ここはじっくり重く聴かせたいというタイプの演奏では、素晴らしい録音と安定感がある。弦・管・打のバランスも良く、この濃密な響きには、この曲の様々なタイプのそれぞれの演奏が好きな愛好家にも満足であろうと私は思う。この曲で重要なスネアは、どっしりとした音色ながらテンポは前向きに嵌っており、11番の表題性を表している。なお、4楽章の鐘は「通常のオーケストラ用チューブラー・ベルではなく、ロイヤル・リヴァプール・フィルから貸し出された4つのチャーチ・ベルを使っている」とのこと(ペトレンコと同じか)。聴いてみると、真っ直ぐに響いて減衰しないものだから、まるでデジタルのような違和感を覚えるほどの存在感。最後は止めずに響かせる終わり方。

V.ペトレンコ指揮/ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団

2008.04.22-23 Naxos

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ペトレンコ全集の初録音となった11番。11番から始まるというのも面白い。その後の安定した録音と比較してやや異なる質であるものの、ペトレンコが表現したいのだろう、これまでにないショスタコーヴィチ全集の序章として印象的かつ野心的な演奏だと感じる。ロジェストヴェンスキーやロストロポーヴィチの強烈な個性とは対称的で客観的。その軽さが魅力である一方、11番の持つ情念の表現とは離れた部分もあり、好みは分かれるのだろう。

ジョルダニア指揮/ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

1999.07.05 Angelok1

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ロイヤル・フィルがいつになくロイヤルじゃない音を出している。秀逸なのはその音色で、どこか暗くて緊張感のある響きはショスタコーヴィチらしい。それでいて、強奏部になるとRPOの超優秀な金管軍団がバリバリと攻めてくるわけです。特に4楽章は引き締まったサウンドが素晴らしい。さすがにアンサンブルも良い。ジョルダニアという指揮者はあまり知らなかったが、他にもショスタコーヴィチをいくつか録音しているので聴いてみたいと思う。

ネルソンス指揮/ボストン交響楽団

2017.09-10/Live Deutsche Grammophon

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交響曲全曲録音プロジェクト中のネルソンス。4番と11番のカップリングで2枚組という夢のようなディスクだが、ボストン響の素晴らしい響きと技術を味わえる録音。素晴らしく統制された演奏であり、11番にありがちな危なっかしさ、ヒートアップして暴走するような混乱ぶりは見られない。スコアをじっくり見ながら聴いてみると、別のディスクで慣れ親しんだ耳にはとても新鮮な演奏。ネルソンスのこの度の録音において特徴的なのは、圧倒的な技術力に支えられた「余裕」にある気がしているが、この11番も例外ではなく、アタッカでつながった全曲をとてもスマートに演奏してみせる。スネアは可愛いぐらいにピッチが高くて軽やかなので、初めて聴いたときにはこれはショスタコーヴィチに求める泥臭い芯の太い打楽器とは違うなどと思ったものだが、2周目を聴くときにはちょっと気に入ってしまって、しばらくするとクセになる感じの面白さ。これも技術力に裏打ちされていて、音のまとめ方やテンポ感が抜群。それにしても、ボストン響の明るい響きや圧倒的な技術力、余裕ある鳴りっぷり、統制ぶりにはブラボーと言わざるを得ないだろう。ショスタコーヴィチをアメリカのオーケストラで聴く楽しみを存分に味わえる一枚である。4番同様にライブ録音からの編集ということだが、圧倒的な高音質と、コントロールされた演奏技術によって安定感抜群の録音。

ケーゲル指揮/ライプツィヒ放送交響楽団

1958.04.24/Live Weitblick

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ケーゲル選集より11番。録音日を見れば、ラフリンの初演から約半年後のライブ。ケーゲルのショスタコーヴィチと言えば「ステパン・ラージンの処刑」の名盤がまず思い起こされるが、ケーゲルは東ドイツの巨匠であり、ドイツのオーケストラと東側文化の溶け合う良くも悪くも歪な時代を代表する指揮者であろう。録音状態は良好。若干気になる部分はあるにせよ、同時代のムラヴィンスキーのライブ盤に比べれば遥かに良い。演奏内容も充実している。デジタル時代の11番にはない切羽詰ったどうしようもない緊張感がある。こうした雰囲気は非常に大事だと思う。テンポは速めで、その焦燥感のようなものに拍車を掛けている。いつもながら弦楽器のもの凄い弾き込みに圧倒される。また、木管楽器の脳天を直撃する高音が、ある種の聞き手には非常に心地良いはずだ。ライブ一発録りであるが、完成度は高い。細かなミスはあるものの、ほとんど気にならない。シンバルから吊りシンバルのロールへの置き換えが多く、どうした解釈なのだろうと思わされるが、5番の終楽章コーダで鐘を追加していること(音程の悪い鐘が、まあ鐘とはそういうものだが、ゴンゴンとティンパニ・ソロに被っている)に比べれば、特にどうということもないだろう。

クリュイタンス指揮/フランス国立放送管弦楽団

1958.05.19 Testament

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ショスタコーヴィチ立ち合いの下で録音されたという歴史的な一枚。ショスタコーヴィチはムラヴィンスキーの11番の録音について語る際に、「私は第11番のアンドレイ・クリュイタンスの録音が大好きです。」と批評家に手紙を送っている。ファーイの『ある生涯』には、1958年5月にクリュイタンスとの協奏曲の録音のために渡仏したとあるので、同時期の録音だろう。当時のショスタコーヴィチと西側指揮者、オーケストラとの交流の記録として、貴重な一枚だが、ヒストリカル音源としての価値以上に、鋭いアタックや引き締まったテンポ感など、ショスタコーヴィチ自身の演奏姿勢が表れているようで魅力的。終楽章の鐘(オーケストラとは別のテンポの世界にいる)は残響がある。サスペンデッド・シンバルの置換や追加がなされているが、ショスタコーヴィチ公認なのだろう(バーンスタイン5番やバルシャイ14番の打楽器追加も公認のようなので、この辺りは寛容だったようだ)。

カエターニ指揮/ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団

2003.03/Live Arts

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カエターニ全集からの11番。実に丁寧、そして軽やかに演奏するカエターニ全集の特徴がある。ミシミシと濃厚な金管の響きと、伸び伸びとした自然なテンポ感、深いところでしっかりと鳴る打楽器が魅力的。大太鼓の素晴らしいこと。SACDの素晴らしい録音によって、オーディオ好きにはまた別世界があろうものだが、演奏上の特筆すべきは4楽章の鐘。どこから持ってきたのだろうかという、釣鐘の音色がゴンゴンと響く。これは他の録音では聴けない。まさに圧倒的としか言いようのない驚くべき鐘の存在感。終演後は、鐘の余韻を味わう間もなく拍手あり。ライブ録音。

カエターニ指揮/メルボルン交響楽団

2005.08.20,22/Live ABC

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ライブ盤。気になるのは全集盤で圧倒的な存在感を示した鐘だが、当ライブ盤は特にどうということはない。やや耳に痛い音色ではあるが、通常の演奏であろう。一方、全集盤よりも薄めの録音ながら、アグレッシブな熱量があり、ぜひ聴いておきたい一枚である。

コフマン指揮/ボン・ベートーヴェン管弦楽団

2006.03.28-30 MDG

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コフマン全集のあえて編成を小さくしているかのような独特のサウンドの薄さが、11番においてどうなるのか。端正で誠実な演奏は非常に好感が持てるもので、なぜかこの11番は録音レベルが非常に下げられており、弱音部を聴くにはボリュームを上げる必要があるが、そうして聴こえてくる精緻なサウンドには見事な美しさがある。こうしてみ積み上げられた音楽が、力任せではない迫力を帯びるのは必然なのだろう。

スラドコフスキー指揮/タタールスタン国立交響楽団

2016 Melodiya

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メロディヤからスラドコフスキーの交響曲全集、協奏曲全集(セッション録音)が連続して発売されたが、我が国では聞かない指揮者とオーケストラにつき、その演奏には実に興味があった。モスクワ音楽院、ペテルブルク音楽院を出てロストロポーヴィチのアシスタントを務めたという1965年生まれの指揮者スラドコフスキーは、旧ソ連系の指揮者の系譜にある。強引かつ荒削りに鳴り響くオーケストラは、技術的な不足を補う魅力がある。タタールスタン響をスラドコフスキー以外の指揮者で聴いたことはないが、このコンビで生まれるサウンドなのだろう。現代にあって録音に特別なアドヴァンテージがあるわけでもなく、タバコフかスラドコフスキーかというような原色の演奏。さすがに11番では技術的な粗が顕著に出ているのだが、それでも最後まで聴かせてしまう押しの強さがある。大丈夫か?というようなテンポで突っ込めばアンサンブルは崩れるし、管楽器はゆとりがないが、決して雑ではない。表現へのこだわりが感じられる。怒涛の勢いで始まる4楽章は最も魅力的で、飽きさせることがない。ギャンギャンとわめくような鐘も素晴らしい。同時期に集中して録音されたこの交響曲全集&協奏曲全集は一気に聞き通してしまいたい。

V.ユロフスキー指揮/ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

2019.12.11/Live LPO

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ウラディーミル・ユロフスキーは、ショスタコーヴィチの映画音楽をはじめ数々の名録音を残しているミハイル・ユロフスキーの息子で、1972年生まれ。ヤルヴィやザンデルリンクの息子たちも頑張っているが、こうした若い世代の指揮者の活躍は本当に心が躍る。巨匠時代は過ぎ去り、彼らの遺伝子を引き継いだ次世代のクラシック指揮者たちの演奏表現はどこか共通するようなストイックさがあるように感じる。当盤もひたすらストイックな真っ直ぐな響きと、引き締まったロンドン・フィルのサウンドが素晴らしい。録音もクリアで、現代で演奏する11番の価値を改めて感じさせられる。巨匠たちの濃厚でアクの強い演奏とは異なるが、アタッカでつながるこの大曲の輪郭をしっかりと感じることができる。安定したテンポ感とリズミックな打楽器の活躍も素晴らしい。ショスタコーヴィチのスネアは、例えば「ダダダッ」と装飾的に16分音符(または8分音符)が付く箇所や、「ダダダダダッ」と連打する箇所においては、個人的には小節の拍頭でなくても入りに重心を置いて「>型」であることが望ましいと思っているが、当盤は比較的「<型」で拍感のある演奏となっている。

アシュケナージ指揮/サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団

1994.11.22-23 Decca

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アシュケナージは、交響曲全集をロイヤル・フィル、サンクトペテルブルク・フィル、N響と録っている。その多くがロイヤル・フィルであり、この11番と7番がサンクトペテルブルク・フィル、4・13・14番がN響という組み合わせ。4番はロイヤル・フィルとの名盤があるが、全集にはN響盤を収録。というわけで、当盤はサンクトペテルブルク・フィルとの録音。オーケストラはあふれんばりのエネルギーで凄まじいが、それを爆発しきれずにどこか抑制しつつ、今にも決壊しそうなアンバランスな印象の演奏である。統率を欠いた印象であるものの、随所に魅力的なサウンドが聴かれる。

プリッチャード指揮/BBC交響楽団

1985.04.12/Live BBC

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実に堂々とした演奏で、BBC響の力強く華麗な響きを味わえる一枚。ライブ録音とのことで、ラジオ放送からの音源のようだが、日常的にこうしたクオリティの高い演奏を聴くことのできる英国のクラシック音楽の浸透度が羨ましい。切れのある金管楽器群と、華麗で豊かなオーケストラの響きが魅力的。食い気味のスネアをはじめ、打楽器も好演。突出した特徴があるというわけではないが、ドラマチックで勢いのある演奏。

モントゴメリー指揮/イェーナ・フィルハーモニー管弦楽団

1996.09.02 Arte Nova

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スネアが気になる一枚。安定感と素晴らしい音量で、存在感のあるスネア。ここぞというときにビシッと決めてくれる。オーケストラのパワー不足は否めない。特にソビエト勢の演奏に聴きなれてしまった耳には、管楽器の弱さがこの曲には迫力不足か。

クライツベルク指揮/モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団

2010.01.25-26 OPMC

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これまでまったくノーマークだったクライツベルク。旧WEBサイトにて情報をいただき、オランダ・フィルとのCD-Rライブ盤を聴いた。ややオーバーな味付けながら、この勢いには圧倒される。もう180パーセントぐらいの力で限界を超えている感じで、圧倒された。とても真っ直ぐに、ストレートに奏者のエネルギーがぶつかってくる。当盤はモンテカルロ・フィルとの録音。前述のオランダ・フィルとのライブと比して落ち着いてはいるものの、実に緻密に構成されたクライツベルクのショスタコーヴィチを聴くことができる。

インバル指揮/SWR交響楽団

2018.11.08-12/Live SWR/Haenssler

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SWRは、かつて南西ドイツ放送交響楽団だったバーデン=バーデン・フライブルク南西ドイツ放送交響楽団とシュトゥットガルト放送交響楽団が2016年に合併して誕生したオケ。頭文字を分解して南西ドイツ放送交響楽団とも。何ともややこしいドイツ放送オケ。全集盤ではオケの弱さがどうしたって拭えなかったが、実力あるSWRを携えて新録されたインバルの11番は聴き応えがある。整った演奏に仕上がっている。一方、やや軽薄な響きは否めず、スネアの軽さはいただけない。旧盤では存在感のなかった鐘はしっかりと届く。

インバル指揮/ウィーン交響楽団

1992.05.23-27 Denon

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インバル全集から11番。90年代初頭、ソ連崩壊直後の混乱期にドイツ・オケとショスタコーヴィチ全集を完成させたインバルは、コンドラシン、ロジェストヴェンスキー、ハイティンクといった全集の中で異端であったことは言うまでもないだろう。この時代にどれだけ11番の録音を聴き比べることができたのか言えば、そう多くはあるまい。私も町田の今は亡きレコファン(西友にあった頃)で購入して以来、インバル盤には長らく馴染めずにいたものだ。ウィーン響の堅実な演奏と共に21世紀の今こそ再評価されるべきだと思うが、客観的でそっけない乾いた響き、入り込みすぎないどこか軽やかな立場の技術的な丁寧さ、パッと抜けてくるスネア、魅力は山ほどある。木琴の乾き具合などもとても好きだ。終楽章コーダは金管がややうるさく、鐘の存在感はない。

ストコフスキー指揮/モスクワ放送交響楽団

1958.06.07/Live Memories Reverence

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スタジオ盤よりも俄然勢いがあり、当時のモスクワ放送響のキレ味抜群のロシアン・サウンドが全開で面白い。強烈な金管に打ちのめされる。もちろん演奏の精度も高く、ただ闇雲に乱暴なものにはなっていない。ストコフフキーのどこかクールな構築力がそうさせているのだろう。練習番号176からの終結部は異様に遅いテンポで濃密な世界観が展開する。これは当時のモスクワ放送響に用意されていた鐘だろうか。この曲のストーリーのとおり、差し迫った危機に対して警鐘を乱打しているかのような、シリアスなドラマチックさがある。録音状態は当時モノと思って差し支えないが、ショスタコーヴィチ自身も同席したというライブ録音であり、この臨場感は格別である。オンデマンド印刷のペラペラのジャケットが怪しげなメモリーズは、ヒストリカル音源の復刻に力を入れているイタリアのレーベルとのこと。当盤はロシアン・ディスクからの復刻である。

ストコフスキー指揮/ヒューストン交響楽団

1958 EMI

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アメリカ初演コンビによるスタジオ録音。アメリカ初演は、1958年4月7日。録音日の詳細はわからないが、1957-59年頃の作品発表時の貴重な録音の一つ。録音状態も悪くない。骨太なサウンドを聴くことができる。ムラヴィンスキー盤のような異常とも言えるスピードと迫力とは異なり、じっくりと細部まで聴かせるような演奏。ストコフスキーはポーランド系イギリス人であり、アメリカで活躍した指揮者。ディズニーの『ファンタジア』がよく知られているが、強い個性が出るタイプの指揮者という印象がある。打楽器は4楽章で金物が改変されており、銅鑼、サスペンドなどに手を入れている。しかし全体的には真っ当なアプローチで、堅実な構築力を見ることができる。

コンヴィチュニー指揮/シュターツカペレ・ドレスデン

1959.05 Berlin

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初演間もない時期のコンヴィチュニーによる11番。録音年からはヒストリカル音源とも言えるが、録音状態はそれほど悪くない。東ドイツのショスタコーヴィチ演奏はその硬質な響きが特徴的だが、この均整の取れた冷淡な演奏には、そら恐ろしい響きがある。このサウンドは、他では聴くことができない。引き締まったテンポで終始緊張感に満ちている。10番と同様にシンバルの改変がある。

ビシュコフ指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1987.03.20-22 Tower Records/Decca

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ベルリン・フィルのショスタコーヴィチが聴けるのはカラヤンとビシュコフだけ(いや、そうでもない)!元はフィリップスからデッカ、そしてタワレコが選集盤として5,8,11番を収めてくれた貴重なビシュコフ&ベルリン・フィル選集。後のWDRとの4,7,8,10,11番も興味深いが、まずは80年代、5番の次に録音した11番に注目したい。どっしりとベルリン・フィルの重厚で硬質なサウンドを聴くことができる。切れ味が素晴らしく、特に4楽章の充実度は心地良い。一方、ベルリン・フィルに練習不足などということはないだろうが、どこかぎこちない不慣れな居心地の悪さがあるのは、ソ連サウンドに聴き慣れてしまった耳ゆえのものだろうか。ギシギシと硬いサウンドは素晴らしく、スネアの合いの手ソロも決まる。スナッピーを外しているのは何の意図だろうか(まさか入れ忘れではあるまい)とか、鐘はチューブラー・ベルではないと思われるが、なぜこの鐘を用いているのだろうか、とか、この録音に臨むに当たっての奏者の背景も興味深い。

ヤンソンス指揮/フィラデルフィア管弦楽団

1996.03.8,9,11 EMI

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オーケストラの技量が素晴らしく、手堅い演奏。実によくオーケストラがドライブしており、軽やかで煌びやかな響きがフィラデルフィア管の魅力を伝えてくれる。一方、あまり録音の多くない同曲において、ソビエト勢や日本のアマチュア・オーケストラによる演奏と比べると、どこかもの足りなさを感じるのも事実。

M.ショスタコーヴィチ指揮/プラハ交響楽団

2006.02.28,03.01/Live Supraphon

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オケが技術的にかなり苦しい。また、2000年代の録音にしては録音状態も良くはない。しかしマクシム全集を聴いていると、このマクシムの情熱とオケの奮闘にだんだんとファンになってくる。全集全般に言えることだが、このリアリティあるサウンドは癖になる。中でも4楽章は燃焼度が高く、あちこちに難点はあるものの、この演奏が目指す姿が見える。

タバコフ指揮/ブルガリア国立放送交響楽団

2013.02 Gega New

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コントラバス奏者でもあるタバコフによる全曲録音から第4集。ブルガリア国立放送響の極めてローカルなサウンドは、どう聴いても明らかに技術的に苦しいのだが、不思議な魅力がある。残響の少ない、表面的で直線的な響きの録音もこのサウンドにはよく合っている。3楽章までは集中して聴かせるが、いよいよ4楽章の息切れと力不足が顕著で、コーダまで辿り着いて完走したときにはこの努力の軌跡に妙な共感を抱くことになる。

デプリースト指揮/ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団

1988.05.23-24 Delos

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デプリーストは11番を2種録音しているが、深い味わいで実に丁寧に作り上げられている。録音はどこか霞みがかったようだが、それがむしろこの演奏の特徴のようにも思えてくるものがある。大きく構えて泰然とした佇まいは、この録音ならではの魅力だ。雄大に鳴るヘルシンキ・フィルのサウンドも素晴らしい。11番のイメージとはまるで異なる側面を見せてくれる。

デプリースト指揮/オレゴン交響楽団

2003.01.18-20/Live Delos

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オレゴン響とのライブ盤。霞みがかったようなヘルシンキ・フィル盤にさらに拍車を掛けてぼんやりとした幻想世界へ我々を誘う。11番のライブ録音がなぜこうなるのか、いや、これはこれで美しい演奏なのだ。デプリーストはスコアからこのような世界観を想像し作り上げるのだから、ブレがない。

スロヴァーク指揮/スロヴァキア放送交響楽団

1988.04.25-05.04 Naxos

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廉価レーベル、ナクソス初期のショスタコーヴィチ全集から。ナクソスの思想は「クラシック音楽の百科事典」というもので、個人的に深く賛同する。スロヴァークのショスタコーヴィチ全集は技術的にかなり苦しいのは聴けばわかるが、一貫した響きは非常に魅力的で、こういう演奏で全曲を録音するというのも大変興味深い試みである。11番については、やはり技術的な粗が目立つが、それよりもパワー不足が決定的。だがその中での3楽章のダイナミックな響きは驚嘆する。そして4楽章では、この全集の功労者でもあるティンパニに支えられて弛緩することのない緊張感の中でしっかりと楽譜の中のストーリーを積み上げていく。スネアも良い。